置き去りになった本質
2012/07/15
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最近MCの現場で制作・代理店の方からたびたび言われること
「ナレーターでなくMCがほしい。だれか教え子でオススメは?」
これを翻訳すると、
「ただ原稿を技術でうまくしゃべる人ではなく、
しっかり伝えることのできる子はいない?」
という内容。
ナレーターもMCも本来は 伝える仕事
仕事内容が 原稿を話す のか、司会進行役 か?という違いのはずが、
いつの間にかこんな風に言われるようになってしまいました
そもそも「技術」というのは、「本質」をうまく表現する・活かすためにあるもの。
ところが、それがひとり歩き
スクールなどでも、「発声・発音」など技術中心で教えることが多いため、
「本質」がどこかへ置き去りにされているのだと思います。
これは、他の物事・世界にも同じことが言えると思います。
最近 連日ニュースになっているイジメ問題も
教育現場の対応をマニュアル化してしまっていて、
マニュアルにあるかないか、マニュアル通りかそうでないか?
それは過去の経験や目安、基準でしかないのではないでしょうか
マナーも同じです。
接客、対応などがマニュアル・ルール化され、
それを守ることが何よりも優先される傾向にあります。
社会・組織の中では、マニュアル・ルールは必要です。
しかし、それがすべてではない
☆そのマニュアル・ルールは何のためにあるものですか?
☆なぜそのマニュアル・ルールができたのですか?
そこに「本質」があります。
マニュアル・ルールがすべてに当てはまるわけではありません。
その時、あなたなら、どうしますか
極論かもしれませんが、
その「本質」がなくなってしまうのであれば、
私たち「人」でなく、プログラムされた「ロボット」で
すべてが済んでしまう時代がくるのかもしれません・・・